Folksonomyについて漠然と考えていたお話 from mixi

考えたこと

Folksonomy雑感

Folksonomyってのは要するに、それぞれが自分の好きなようにキーワードをつければ、分類なんかを予め考える必要はないんじゃね?
ってこと
キーワードってのはタグって言ったほうが通りが良いかも
他にも、一つのリソースがただ一つの分類項目に納まる必要はないよねってのも含むのかな

単純に考えれば、勝手気ままにタグなんか付与しても後で使いようはないわけだけど
ちょっと前にはやったのですよ(多分もしかすると現在進行形)
で、何でFolksonomyなんて話が出てきたかってのを夢想すると

情報の増大

情報の陳腐化

ってののスピードが上がっちゃったせい

そのせいで今までみたいに専門家のような人たちの分類やまとめを待ってられなくなった
で、待ってられないんだったらテキトーでも良いからやってしまえっての
ここまでは簡単でテキトーな概略

**で、分かった気がするのはこんなお話
www.kanzaki.comの中の人が昔どっかの学会か何かの講演した時に聞いたような気がするこんな話
「みんなで適当にタグを付与していってその数が爆発しても、いずれタグの種類は収束していく」
「タグの収束に従ってリソースに適切なタグが付けられるようになっていく」
っていうある意味楽観的なものの考え方
// 手元に資料を残しているほどマメではないのでウロオボエ

はじめにこれを聞いた時、直感的に「それは無理だろ」って思ったんだけど
なぜそう思ったかって説明が頭の中で固まらなかったんですよ
それが今日分かった気がする

**要は「メンテナンス(維持、整備)」の問題
例えば、
タグの種類が収束していってリソースに適切なタグが付けられるようになったとしても
今までリソースに付けられてた収束される前のタグが修正されるとは限らない
っていうかそれを期待するのは多分無理ってこと
でも、個人で付けたタグは個人でメンテナンスしていかなくちゃいけない

以下余談

他にも
タグの種類が収束するためにはどこかの段階で(多分実際は連続的に)新しくタグを付ける人が、
前の人が付けたタグを踏襲する必要があるんだけど
タグの種類が爆発している中でそれをやってしまったら、結局収束していかないんだろうと思う
まぁ、そういう時のために(あまり使いたくない単語だけど)アルファ~って人たちがいるんだろう
// ほら、もう陳腐化した気がするぞ「アルファ~」って単語

メンテナンスできるなら世話が無い

個人で集めた情報を個人で几帳面にメンテナンスできる人は
Folksonomyなんて話に頼る必要がないわけで、出来ない人が自分も含め世の大半だと思うのですよ
これが出来れば机の上はちゃんと片付くし、資料が行方不明にもならない
PC内のファイルやディレクトリの名前を見てこれが何か分からなくなることもない
もちろん、出来るに越したことはないし、するように努力する必要はあるけどね

で、一応こんぴゅーたなんてものを触っている人間としては
メンテナンスフリー(もしくは限りなくメンテナンスの負担を下げる)ことを考える必要があるのだなぁ
っと思いました
まる

ご大層に長文書いて出てきた結論は結局それかよ
まぁ、メンテナンスフリーの分類方法や体系があればそれで良い訳ですが、そんなもんは無茶というもので
さてどうしたもんか

(「フォークソノミー」(folksonomy)[folks(人々)とtaxonomy(分類法)を合わせた造語]
  by hotwired. http://hotwired.goo.nh.jp/news/culture/story/20050207204.html)

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