プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 抄録

感想・レビュー

先日、USBメモリを整理していると書きかけの文章が色々出てきました。「ことがかんがえられr」なんてまさにキーボードを打っている最中で止まっているものもあれば、ああなんか書くのをやめたんだなぁっと分かるものもあったりで、興味深いものがあります。

という[2009-07-01-1]の書き出しとまったく同じ理由で次に出てきたのが、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神に関するもの。マックス・ヴェーバーというおっさんが書いたらしい本の抜書きになります。

案の定何を目的にして書いていたのかさっぱり分からない上、どれが引用でどれがまとめなのかまったく分かりません。せっかく書いたのならページ数くらい書けば良いのに、それさえしていないため確認修正が困難です。なので前回と同じく無修正のまま、とりあえずブログに乗せておこうと思います。

以下本文(見出しだけは後付け)

初めに

どうあがいても宗教くさくなるのは仕方がないとしてとりあえず。後半は宗教の歴史的な考察がおおくなるので、基本的には前半のみの抄録。

**抄録

カトリックとプロテスタントの人口比率が大きくいずれかに傾いている場合でも、経済的なメインストリームにおけるプロテスタントの占める割合が大きい

政治的宗教的メインストリームから排斥された集団は活路を経済に求めがち。ユダヤ民族等

ただしカトリックとプロテスタントの関係では、前記の経験則に当てはまらない。いずれがいずれの場合でも経済的にはプロテスタントの比率が大きい

ベンジャミン・フランクリンにおける資本主義の倫理ついて。時は金なり

基本的な労働者は、常に賃金の増大を求めるわけでは無く、労働と対価である賃金のバランスを保とうとする。単位時間あたりの賃金を増やすと労働時間が減少する。どうすれば楽に、仕事をせずにしかも同じ賃金がもらえるかを考える。(伝統主義的な労働)

高度な生産には、高度の責任感や仕事を自己目的化(天職化)したものとする労働者によってなされる。これは、人間生来のものではなく、教育によって獲得される。(資本主義的な労働)

近代資本主義的精神とは、正当な利潤を天職として、組織的にかつ合理的に追求する心情

経済主義的な合理性で必要な天職思想と職業労働への献身は、純粋な幸福主義的利己心からみればはなはだ非合理である。いつどのようにして、合理非合理がいれたがったのか?

プロテスタントとカトリックで異なった職業感は、聖俗を区別せず信仰のための行動としたこと。それに伴って世俗的職業に従事することそれ自体が一種の信仰の手段となった。

(引用)だれもがいずれか一つの天職にめされている。各自はこの天職に従い、それにおいて神に奉仕せねばならぬ。神の喜びたもうものはその成果でなく、その中に認められる従順なのである

カトリックとプロテスタントによる宗教改革それ自体が資本主義的な考え方を生み出したわけでも、目指したわけでもない。これは、資本主義的な考え方が、宗教改革以前にもみられることからも明らかである。

カルヴィニズムの予定説(人が救われるのは、個人の信仰や行動によるものではなく、予め救われる人は神によって決められているという考え方)は信仰や救いの対象としての行為を取り除き、俗世現世へフォーカスを移した。呪術からの解放

予定説により救いやその実感を他から得ることができなくなった結果、その確証を自ら得るための行動主義が絶え間ない職業労働によってのみ宗教上の疑惑は追放され救われているとの確信が得られる

宗教改革は合理的なキリスト教的禁欲と組織的な生活態度を修道院から引き出して世俗の職業生活の中に持ち込んだ

どの教派においてもつねに、信徒は救われる人間という確証を、(自然)のままの人間の生活様式とは明白に相違した独自な行状による確証、によってのみ保証されうるとした。

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