畿内にあった邪馬台国はどのように運営されていた国だったのか考える話

邪馬台国に関する思いつき

邪馬台国が北部九州にあったのか、畿内にあったのかという話は色々あるけど、じゃぁそもそも畿内にあったと考えたとき、邪馬台国というのはどういう風に成り立っていたのか、というのを考えてみる。ここら辺は当時の資料も何もあったものではないので、想像の翼を逞しくしないといけないのでぼんやり考えてみる。

まず、第一前提として重要なのは、邪馬台国時代の倭国の条件はそれぞれ付帯する話が細々出てくるけど、まずはこんな感じじゃないかな。

  • 文字がないこと
  • 馬、牛などがない
  • 現在の西日本全域にある複数の国を取りまとめる必要がある

少なくとも魏と使者のやり取りをできているので一部の層は文字を使えたと思うけど、何も出てこないのでなんとも言えない。少なくとも支配者の日常レベルでは文字というものは存在しなかったんだと思う。ここら辺は新アッシリア帝国のアッシュル・バニパルという王様が、俺は文字を読むことができるとわざわざ自慢しているくらいなので、為政者であっても文字が読めないということはありうるんだろうな。

あとは、当たり前に存在していたであろう、竹や木を使った竹簡木簡、炭と膠で作った墨のようなものが出てこないということは日常レベルでは文字は存在していない。また、古墳の中や出土品からも文字の痕跡がちゃんと見つからないということは呪術的な意味で文字を取り扱っていたということもなさそうな気配がある。

次に、馬、牛がいないこと。これも魏志倭人伝に書いてあるので、きっといなかったんだろう。いたとしたら使者の移動に使ったはずで、それならば使者がわざわざ「いない」と書き残す意味がわからない。これに追加する形で、きっと馬車などのような運搬用の道具もなかったと思われる。中国、朝鮮半島の人たちは馬や馬車・当時の戦車は知っているはずで、それを馬がいないから人が引いていたということを目の当たりにすれば、まず間違いなく書き残すはず。それが残っていないということは多分、なかったんじゃないかな。

更にいうと、使者が常駐するところとされる伊都国とその近辺の様子を見る限り、大した整備もされておらず、野山を歩くような様子が書いてあるので、当時は道を整備するといった概念も希薄だったように思われる。この部分で、「道を整備すると他国に侵略されやすくなるから意図的に整備していないんだ」みたいな話もあるけど、魏のみならず朝鮮半島にある国の使者が往来して常駐するようなところ、使者の荷物を管理して間違いもなく送り届けるようなところの道が管理されてないってのは普通に考えればおかしな話じゃなかろうか。

次に、西日本全域にある複数の国を取りまとめる必要がある。これは邪馬台国をどういうものと捉えるかにもよるのだけど、おそらく西日本全域を支配する単一の国があったというより、それらの国を束ねる連合国家のようなものを想定することが多いのではないかと思う。

ところで、邪馬台国の所在地論争でよく問題になるのは連続説と放射説。要するに旅程を一つずつ辿っていくのが連続説、説伊都国までは直線でそれより先は伊都国からの旅程を記述しているという説がある。で、畿内説の場合、方角は一旦おいておいて連続説を取る。つまり投馬国まで水行20日、そのあと水行10日陸行1月かかって邪馬台国にたどり着く。そうするとそんなに広くない九州説は成り立たないので、畿内説であるという話になる。

そうなるとなかなか難しく、「伊都国 – (水行20日)- 投馬国 – (水行10日陸行1月)- 邪馬台国」となって、少なくとも伊都国と邪馬台国を移動するには約2ヶ月間もかかってしまう。往復するなら4ヶ月、これはなかなかに厳しい。例えば「朝鮮半島で有事があって朝鮮半島の支配者が魏にやられてしまった。これからは魏の時代だ」というようなことがあった場合、その情報が邪馬台国に届くのは少なくとも2ヶ月後(半島から伊都国、伊都国から不弥国までの時間は除く)、対応を検討して伊都国に指示を出すためにまた2ヶ月。本当に魏や朝鮮半島から攻められたりしたら、多分伊都国はもう滅んでる…。伊都国の人口は少ないので、援軍を出すのであれば、どのくらいかかるのか。各国へ使者を派遣して、軍備を整えて、移動させる。多分、半年以上かかるんじゃなかろうか。

ちなみに、その後しばらくたった時代、九州の土蜘蛛やら隼人やらを相手にするときは、わざわざ九州に都を移して対応していることを見ると、有事の際はやっぱり近くにいないとまずい様子なのはうかがえる。少なくとも奈良の纏向で悠長に占いをしている場合ではないのはたしかだろう。

有事の場合はもう少しシャキシャキ移動するだろうという向きもあるけど、そもそも馬がないので陸路は歩く or  走る。海路は船なので、なかなか短縮は難しそう。あと、これは想像だけど道の整備もできていないので移動も大変。更にいうと文字がないのがネックで、伊都国 – 邪馬台国間の使者を出すのであれば、少なくとも報告の内容を覚えていられて2ヶ月後に内容を間違えずに伝えられる人、かつ相互の国で顔が知られている人という結構ハイスペックな人を使者に出す必要がある。少なくとも足が速いだけの飛脚では役に立たない。結構しんどそう。

狼煙を使ったという向きもあるかもだけど、そんなものがあれば魏志倭人伝には書かれてるだろうし、そもそも狼煙レベルで細かなやり取りは難しかろう。いや、そのために伊都国には一大卒がいて強権を持っているんだと言う向きもあるが、外交と軍備をもって周辺国を抑えているって、それはもう別の国では…と思ってしまうので、流石にそれは無茶だろう。税を取ってたという記述もあるけど、じゃぁその税をどうやって邪馬台国に運んだのかとかね。外交、軍備、税制も別ならもう完全に違う国じゃないかなと思ったりする。

ここまで来ると、なかなか国家連合としての邪馬台国という存在が難しく、逆にどうやったら成立させられるのかというのを考えるのが面白くなる。例えば、実際の中心は伊都国で、宗教的な権威が邪馬台国にあったのだと言う話は面白い。そうすると四半期に一回位の頻度で、占いの結果を届けにくる邪馬台国になんで従ってるのかみたいなところを考えていく必要がありそう。

例えば邪馬台国内の使者一つにしても、文字もないので、使者には相当の教育レベルが必要だし、相互で顔を知られて信用されている必要がある(そうしないと誰でもニセ使者ができちゃうからね)。ということは、邪馬台国を構成する各国間で相手の国それぞれに自分の国の使者を常駐させて、いざという時は連絡とともに帰国させるとか。

使者が一人だと万が一死んじゃったときに困るから家族単位で相手国に常駐させてたり、相手の国に懐柔されないように定期的に常駐国を移動させる一種の参勤交代みたいな制度があったんじゃないかとか、考えてると面白い。だって、卑弥呼が共立されるまでは倭国大乱してたレベルでお互い信用してなかったはずだし、そういうことは結構、逼迫した課題だったと思うんよなぁ。

こんなこと書いてると、じゃぁ他の国はどうやってたんだよという話になるけど、当時の邪馬台国レベルの文化レベルだと、広範囲の組織を成り立たせている文明ってあんまりないと思うんだよね。少なくとも、文字と馬はほしい。それがいないって言われるので、想像の翼がたくましくなる。ちなみに、魏や朝鮮半島には文字はあるし、馬はいるわけで、それが魏志倭人伝にわざわざ「ない」って書くということは、ほんとにいなかったんだと思う。

ちなみに、文字と馬がいる前提でどうやってたかというと、古代ギリシャの都市国家アテネと神託を下すデルフォイの直線距離が大体120kmくらいらしい。具体的な場所がわからないけど、道のりならもう少しかかるくらい。仲が悪かった都市国家アテネと都市国家スパルタの間が直線で150kmくらい。そもそも古代ギリシャ(をどの辺と考えるかはあるけど)はおおよそ300km四方くらいの中の話で、これは海を含んだ話。

同じように、古代シュメールもおおよそそのくらいの範囲内に無数の都市国家が存在していて、戦争したり盟主を気取ったりしていた様子。シュメールで文字が誕生した経緯について書かれた「エンメルカルとアラッタ市の領主」という話では、ウルク市の王が、アラッタというところとやり取りする際に「内容が複雑で使者がそれを復唱できないので粘土板に文字を刻んで言葉を書いて手紙にした」という話になっている。

このアラッタというのがどこなのかは比定できていないらしいのだけど、山を7つ超えた先にあるらしい、おそらくイラン高原あたりではないかという話である。イランあたりだと仮定すると直線距離で約800km。随分と離れているように見えなくもないけど、山を7つ超えた先というくらいなので、本当はそこまでの距離はなさそう(日本人感)。今の糸島と纏向の間は約500kmと考えると、まぁそんなもんかなと思わなくもない。このレベルで離れると、もう文字によるやり取りをしないと無理って話なんだと思う。

ちなみに、この話自体は現実を反映しているとは思えないということで、交易路を使って交易があり、それぞれの品物や数量などを文字を使って記録していたというのがありそうだという話のようす。

どうも後世の大和朝廷や同時代の三国志を見ていると、結構邪馬台国も行けるんじゃないかと考えてしまいがちだけど、当時の文明レベルを考えると、古代シュメール、古代ギリシャ以下の文明レベルなのは魏志倭人伝に書いてあるので、なかなかどうして西日本をまとめる概念としての邪馬台国というのは難しそうだなっと思ったりする。

別にだからといって邪馬台国 九州説というわけでもないんだけど、だからこそどういう仕組なら行けるんだろうというのはぼんやり考えてしまうし、邪馬台国畿内説の人たちはどういう国、組織を想定してるんだろうというのはぜひ聞いてみたいと常々思ってたりする。

ちなみに、連合国家とか国とかいうとこんな感じで大変なんだけど、交易をしていたという意味ならそんなに考え込む必要はないと思うのです。縄文時代から翡翠や黒曜石の流通はあったわけだし、土器や銅鏡、何らかの情報などの流通もあっておかしくない。ただ、国とか連合国家とか言い出すと、それの成立条件が気になる…ってなってしまうだけなので。

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