邪馬台国の所在地論争を一旦脇に置くとして、魏志倭人伝というものを見ていると、なかなか解釈が難しいところが出てくる。で、いろんな説を見ていると、やれここは間違いだ、これは嘘だ、なんだと自説に都合の良い形で解釈することがままある。
例えば、南を東の間違いだと言って見たり、一月を一日の間違いだと言って見たり、邪馬台国は西の大月氏国と比べて見劣りしないように話を盛っているとか、いろんな話がある。
まぁ、それはそれでいいんだけど、その嘘や間違いについて、だれがどういうタイミング、動機で行うのかというのは自分の頭の整理のためにもいるのかなと思いちょっと考えてみた。
今、魏志倭人伝に関わる人たちは以下のような人たちだと思う。それぞれの背後には、何らかの組織としての思惑やら、社会情勢やら、その時のノリと勢いみたいなものがあったとは思うけど、まずは主体としてこんな感じではなかろうか。
- 「倭国の人」
- 「使者の人」
- 「通訳の人」
- 「筆者の人」
- 「書写の人」
例えば、後世の書き間違いであれば書写の人が書き間違えたんだろう。倭国の人と使者の人が直接同じ言葉で会話していたかは分からないけど、きっと何らかの通訳のような人がいたように思う。当時の倭国には文字がなかったということなので、使者はきっと倭国の人ではなかったろう可能性にも留意したい。筆者は陳寿ということになっているけど、100%全部を書いたわけでもなかろうし、国の意向もあったろう。
使者の人達は、現地の倭国に来て、色々見聞した結果を何らかの報告書に書き残していて、それを元に筆者の人が一つの話にまとめているんだと思う。ちなみに、魏志倭人伝を見る限り、複数回の往来があるので、この使者は単一の人や一回の渡航の記録ではなく、複数人複数回の記録があったとみるのが適当な気がする。
そういう意味では、複数回の往来で、例えば夏に来た時の記録と冬に来た時の記録、滞在中に聞いた記録なんかがごちゃ混ぜになっていてよく分からなくなってるってのは十分にありうる話ではなかろうか。
さて、魏志倭人伝の記述が事実と異なると考える場合、いくつかのパターンが考えられる。
- 嘘をついている
- 事実誤認をしている
- 単純に間違っている
- 先入観だけで知ったかぶりしている
- あえて書いていない
- (当時と現代の差異、合理性の差異)
嘘をつく場合でよく聞くのは魏志倭人伝を編纂するにあたり体面を取り繕う必要があった説や倭国側が魏側に正確な情報を開示しなかった説なんかがある。事実誤認は先ほどの方角を間違って捉えてしまった説。単純に間違っている、先入観だけで知ったかぶりしている部分は色々ありそう。あえて書いていないは難しいが、魏志倭人伝の立ち位置から考えて「ある」とされているものは「ないのにあることにした」可能性があり、「ない」とされているものは「あるのにないことにした」ということがありそうである。
嘘と間違いを分類するのは中々に難しい。例えば「東南に陸行五百里で、伊都国(福岡県糸島市付近)に着く」という話。その前にいたと思われる末廬国(佐賀県松浦市、佐賀県唐津市付近)から見るとどう見て北東であり、南東ではない。
じゃぁ、これが嘘なのか、間違いなのかと言われると難しい。もしかすると末廬国、伊都国に比定している場所が違う可能性もある。間違えているという可能性の一つは方角90度くらいずらすといい、これは使者が方角を間違えたからだという話もある。陸沿いに行くと初めに東南に向かうのだから、記述としてはあっているという説もある。距離だって500里は盛りすぎだ、これは短里だ長里だと侃侃諤諤してしまう。
最後の「当時と現代の差異、合理性の差異」はちょっと特殊で、例えば邪馬台国が存在した当時と現代の差異が嘘や事実誤認と見えてしまうことがありうるということである。例えば当時の海面は現代よりもずいぶんと高かったようで、今では陸地のところも、当時は海だったり、関西辺りでいえば大阪近辺はかなり大きな海があったり、奈良に湖があったりしたらしい。これは魏志倭人伝に限らず、現代視点から見ると腑に落ちないことは多々ありそうではある。
先の例にとれば、末廬国、伊都国の比定が仮に正しいとして、いったいなぜ直接伊都国に行かず、末廬国を経由するのか、合理的な意図がいまいちわからない。なにせ末廬国は草が多い茂り前を行く人の背中も見えないくらいの僻地であり、一方の伊都国は使者が留まるところというくらいの当時でいえば整備された国であるように思える。どうせ船で来たなら直接伊都国へ乗り入れたほうが早いような気もするが、これもよくわからない。
一説には複数回、使者が往来したうちのどこかで不慮の事故があり意図せず末廬国に上陸、陸路で伊都国へ移動した時の記録が混ざっているという話もあるが、そういう話をされてしまうと何とでも言えてしまうので、何も言えなくなってしまう話ではある。
長々と書いてきたが、結局のところ自説に合わない部分を都合よく解釈する前に、「なぜそういった齟齬が起こってしまったのか」ということに思いをはせるのもまた楽しいのではないかなと思ったりするわけである。