そうだ車輪と名づけよう

千羽鶴はどこにあるべきか ー「善意」と「迷惑」のすれ違い

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考えごと

災害やらなんやらがあると、だいたいいつも話題になる千羽鶴。要するに被災者のことを思いながらせっせと作った千羽鶴を被災地に送ると迷惑ですよね。という話。

千羽鶴を送られる人は別に 被災者とは限らないけど、便宜上ここでは被災者としておく。

送りたい人々と、送られたくない人々

迷惑な理由としては、被災してそれどころじゃないのに、役に立たないものを送られても困る(物流や対応も含めて)。という感じかな。それに対して、被災者のこと思って折った千羽鶴をゴミのように扱うのはいかがなものか。みたいな話が返ってくるっぽい。

生活物資でない千羽鶴を被災直後の被災地に送る行為は、現地の限られた運搬能力や労働力を無駄に割かせることになる上、処分にも多額の費用が掛かるとして批判がある。東日本大震災以降、たとえ善意であっても処分するしかない千羽鶴を送られることは避難所での負担になるという指摘が被災経験者から行われるようになった
千羽鶴 – Wikipedia

そもそも千羽鶴ってなんで折るんだっけ

千羽鶴を折る意味を考えると、たぶんその主たる要素は「折る人が被災者のことを思って行動する」ってことなんだと思う。だって別に食べられるわけでも、客観的・物理的に役に立つわけでもないからね。大切なのは心だと思うのです。

子どもが折りがち(折らされがち)なのも、被災者に有益なアクションができない子どもたち(そりゃ子どもなんだから仕方ないよね)が、それでも被災者のことを思い、心を致す、その発露・表現としてあるのだと思うのです。

じゃぁ、子ども以外は千羽鶴折ってる暇があるなら募金なりなんなりやれよって言われるかもだけど、いろいろな都合でそうできない人達もいるわけで、そういう人たちが只々無力感に苛まれてしまうより、なんらかのアクションを取ることで心のバランスを取るのもわかるのです。

たぶん、これを否定している人は少ないんじゃないかな。

ところで、なんで送るんだっけ

そうやって、折った折鶴を被災地に送るのですが、ここでズレが生じている気がする。送りたい人と、送ってこられたくない人。

例えば、被災地に千羽鶴が飾られたり、なんらか奉納されたりしているシーンを映像や写真で見るから、「千羽鶴は被災地にあるべき」みたいな印象があるけど、それって本当なのだろうか。

「千羽鶴を折る人」と簡単に行ったけど、実はこれ2種類あると思っていて。大きく「被災者(もしくは被災地にいる人)」と「非・被災者」に分けて考えてみよう。

「被災者(もしくは被災地にいる人)」 は、おおよそ被災地にいるので、自分折った折鶴は被災地にある。これを「非・被災者」が見て、「千羽鶴は被災地にあるべきだ」と思って送るイメージが醸成されたんじゃないかな。

もう少し言うと、本筋的には、被災地にある千羽鶴は「被災者(もしくは被災地にいる人)」 が現地で折ったもので、別に送られて来たわけではない。それをみた「非・被災者」は千羽鶴は被災地にあるべきだと思って、折った折鶴を被災地に送ってしまう。

この認識の差が、この折鶴を送る問題の本質なのではないか。別に千羽鶴を折ることが悪いとか、無駄だ、邪魔だというのではなく、折鶴はどこにあるべきなのか。

千羽鶴はどこにあるべきなのか

じゃぁ、折鶴はどこにあるべきか。

「被災者(もしくは被災地にいる人)」 が現地で折ったものが現地(被災地)にあるのであれば、「非・被災者」 が折った千羽鶴は「非・被災者」 のところにあるべきなんだろうと思う。

いや、せっかく折ったのになんで手元に置いたままにするんだ、気持ちが被災者に届かないじゃないか。みたいな話もありそうだけど、本当にそうだろうか。

例えば、災害を風化させてはいけません。みたいな言い方がよくされる。要するに記憶は薄れ、いずれ意識から無くなっていく。それ自体は人の心の防衛のために非常に重要だし、日々生きていく中で優先順位がつけられるのも当然だろう。自分たちが被災者でなければなおのこと。

そういったときに、千羽鶴という存在が役に立つのではないか。

千羽鶴のある風景

例えば、どこかで大きな災害が起こってしまった。被災地は大変なことになっているとしよう。

被災地に対してポジティブなアクションを取れる人たちは、様々な活動を通して被災地を支援する。でも、そういうアクションを取れない人たちは、ただただ自分の無力感に苛まれてしまう。

そういった時、千羽鶴を折るのだ。被災地の人たちを思い、一刻も早い復旧を願い千羽鶴を折る。

折り終わった千羽鶴はどこにあるべきか。これは、「自分たちの目の届くところ」だろう。例えば小学校で折られたのであれば、学校の靴箱が並ぶスペース。地域の施設で折られたのであれば、その共有スペース。家庭で折ったのなら居間や玄関。折った人たちの目に常に入るところに置くのが良いのだろう。

それになんの意味があるのかって?その千羽鶴が目に入るたび、それを折ったときの気持ちが心に浮かぶだろう、そうすることで被災地から離れた場所の人たちも被災地のことを思い出し、被災している人のことを思い、心を致すことができるようになる。

また、千羽鶴を折っていない被災地ではないところに住む人たちにとっても、その千羽鶴を見ることで、災害や被災地、被災者のことが少しでも頭に浮かぶ。その中から、新しくアクションを起こすことができるかもしれない。

そうして飾るうちに、段々と千羽鶴はくたびれていって、ボロボロになっていく。そういう変化を日々見ることで、時間の経過を意識し、これだけ経ったけど今どうなっているだろうなどと考えるかもしれない。もしかすると、もう一回千羽鶴を折り直したほうがいいと思うかもしれない。

そうやって日々意識するためのキーとなるのが千羽鶴の役割かもしれない。

千羽鶴を現地へ送ってしまったら

逆に、折った千羽鶴を現地に送ってしまった場合を考えてみる。

折るときは心を込めて折るのだろう。折り終わった達成感とともに千羽鶴を現地に送る。千羽鶴は視界から消え、残ったのはなにかを成し遂げたという達成感のみ。

「私は、この災害に対して千羽鶴を折って送るという行動を成し遂げた」と思う人は、この「災害」について思い返すことがあるだろうか。次に災害の情報に触れたとしても、「私は、この災害に対して千羽鶴を折って送るという行動を成し遂げた 」というイメージが先行するのではないか。

もちろん、そういう人ばかりではないと思うが、少なからず心に浮かぶのではないだろうか。それは本当に被災者に心を致していると言えるのだろうか。それなら、日々自分が折った千羽鶴を見て、被災者に思いを馳せるという道もあるのではないか。

終わりに

災害があるたびに話題になる千羽鶴。思いがあるのだと思う。ただ、その後の行動が違うだけで、だいぶイメージと結果が異なる気がしている。折ることと送ることを分けて考える。祈りながら千羽鶴折る人の心を受け止めつつ、千羽鶴のもつ意味、果たす役割を捉え直すことができれば、いいんじゃないかなぁって思います。