そうだ車輪と名づけよう

共有世界の変遷 ナーロッパから神話まで

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考えごと

ライトノベルやRPGでよく見かける舞台設定を「ナーロッパ」と呼ぶことがある。安直だと笑われがちだけれど、実際には作者と読者が共有している“共通の世界”だ。そんな「共有世界」こそが物語の根幹であり、そしてその「物語」は時代とともに移り変わっていく。そんなことをぼんやり考えてみた。

ナーロッパと共有世界

要するにRPGゲームに出てきそうな中世ヨーロッパ風の世界なんだけど、中世というより近世に近かったり、剣と魔法、冒険者ギルド、謎に発達した貨幣制度や整備された上下水道と服飾みたいな感じのやつ。ほかにもいくつかのアニメの舞台になっている街の作りが、円形で周囲を外壁に囲まれていて南北に川が流れててそっくりだったりするとか。まぁ、そういう感じのものを一緒くたにした世界観、概念に名前をつけたもの。

この安直だがわかりやすいRPGに出てきそうな中世ヨーロッパ風の舞台設定を否定的に捉えたり、幼稚だとする話が少し前に流行ったんですよね。最近だと、葬送のフリーレンもそう言われてた気もするし、こっちは逆にファンタジー世界の共通認識がない視聴者とのギャップみたいな面で語られたりもしている。

つまりこれらナーロッパ的世界を舞台にした作品は、広い意味でのシェア・ワールドと言えるんじゃなかろうか。今ちょっと調べてみたら、フリーシェア・ワールドのほうが近いかもしれないけど。

共有世界いろいろ

この共有世界には様々な側面があって、例えば世界より設定のほうにフォーカスすると追放物、悪役令嬢物、異世界転生物なんかも一定の設定や世界観が作者・受け手の間で共有されているという意味で共有世界と言えるかもしれない。もちろん、ナーロッパもそうだし、ナーロッパと似てそうで似ていないドラクエ風の勇者・魔王みたいな共有世界もある。

これらの共有世界は、テンプレ、没個性、ご都合主義の舞台装置、安っぽなどと一種バカにされていることが多いような気がするんだけど、それって一面的だよなって思ったりする。

もちろん、こういう共有世界が作者と受け手の間で共有されているからこそ、受け手が説明なしで状況を理解できたり、作者が細かい説明を省いてストーリーの本筋に集中、RPGやアニメで培われた「お約束」が通じやすいというメリットも大きくある。

共有世界と物語

と、ここで話したいのは共有世界のメリット・デメリットとか、存在意義ではなく、この共有世界こそが物語の基礎なんじゃないかという話をしたいのです。

警察ドラマと医療ドラマ

例えば、共有世界を舞台にした作品群としてなにが思いつくだろうか。今まで話をしているナーロッパはもちろんそうだけど、それよりも幅広く日本人の人口に膾炙しているのは「警察」と「医療」じゃなかろうか。

日本のドラマシーンにおいて、「警察」と「医療」 は頻出の舞台で、僕達は実際の警察や医療の現場なんかほとんど知りもしないのに、なんとなく知った気になってドラマを見ることができる。これってすごく面白いなって思う。もっと身近な業界なんかいっぱいありそうなのに、妙に多い。そして見られてる、気がする。

時代劇と江戸

さらに遡ると、共有世界「江戸」が登場する。要するに時代劇。江戸時代は300年くらい続いたので、江戸時代と言っても時期によって様式が様々あるはずなんだけど、時代劇に出てくる「江戸」はだいたいおんなじ。あれはもう、共有世界「江戸」 。

さらに言えば、江戸時代を描いた作品でも江戸以外はほとんど出てこない。特別な機会にサラッと出てくることはあっても、江戸時代の福岡を舞台にした時代劇なんてものはほとんど無いんじゃないかな。江戸以外であるのは幕末京都くらい?

特番みたいな時代劇だったり大河ドラマは除くとして、江戸時代以外のTVシリーズの時代劇ってのもほとんど無い。鎌倉、室町あたりを舞台にした時代劇はあまりなさそうだし、平安、飛鳥もなさそう。これは撮影セットが作りづらいという点もあるだろうけど、僕らがなんとなく時代劇というと、漠然と共有世界「江戸」を思い描くのだろうと思う。

落語と江戸の風

もっというと、同じ江戸を舞台にする落語もこの共有世界「江戸」と言ってもいいかもしれない。時代劇の「江戸」とは違うけど、これもやっぱり共有世界「江戸」なのだろう。あ、もちろん上方落語の場合は共有世界「大阪」とかになるんだけど、括弧の中が違うだけでどちらも共有世界なことに違いはない。

江戸時代300年のどの時点かよくわからない舞台で、キャラクターも舞台装置もテンプレ化されている。そうすることで初めて聞いた落語でも、落語の文脈がわかっていれば、すんなり入っていける。立川 談志が言った江戸の風は、その意味するところは違うかもしれないけど、これもまた共有世界ではないかと思う。

神話と共通世界。ギリシア神話を例にして

途中をすっ飛ばして、遡っていくと神話というものもまた、共有世界だろう。例えば、ギリシア神話。ギリシア神話には全体的な世界観や設定があり、様々な詩人や学者、その他色んな人たちが自分たちの神様や英雄が登場する話を作っていった。現代から見ると、それらは一つの「ギリシア神話」に見えるかもしれないけど、本当は別々に語られた物語が共有世界であるがゆえに一つの神話として見られている。そのせいで、系譜も違えばストーリーラインも違う、人格さえ違う様々なエピソードが語り継がれているんだと思う。

これは別にギリシア神話だけにとどまらず、日本だって、どこだってそういうものなんだろう。一本筋の通った固定されたストーリーしか存在しないエピソードしか持たない宗教があったとしたら、それは…、ね。

おわりに – 共有世界の興亡 –

ここまででいうと、この共有世界というもの、それ自体が「物語」の原点であり、語り手と受け手をつなぐ必須の要素と言えるんじゃなかろうか。そして、それは時代の変化によって大きく移り変わっていく。神話が終わり、大きく飛んで落語が語られ、時代劇が流行って、刑事ドラマ、医療ドラマが流行って、ナーロッパになって、追放物、悪役令嬢物、異世界転生物が流行って行くわけです。

そして、なぜ時代劇が流行らなくなったかと言うと、時代劇の共有世界「江戸」を共有できる語り手と受け手がシュリンクしてしまったからでしょうね。いまテレビドラマで刑事ドラマ、医療ドラマを見ている層はどうですかね。あと20年しないでgo awayしてしまうんですかね。

RPGゲームが下火になることで、今の若い人たちはナーロッパという世界を共有できなくなっていくんでしょう。今の若い人たちの中で共有できる世界はどこにあるのか、すごく気になりますが、きっとそれが出てきても僕は素直に受け入れることができないかもしれません。

それはそれで正しいのですが、少しさみしい気もするのです。