「桃太郎」再考:描かれざるおじいさんの役割と物語の深層

考えたこと

桃太郎のお話し。冒頭で「おじいさんは山へ柴刈りに行きました」的なエピソードが、話に全然絡んでないのなんなんだろうな。山も柴も後の話には全然出てこない。古い話に遡るとなにか意味とか役割があったりするんだろうか。おじいさんの存在感がゼロなのは、桃から生まれちゃったせいだと思うけど 。一方で竹取の翁は、ちゃんと竹を取りにいった意味はあったし、役割がないおばあさんは、意味もなくうっかり川に洗濯に行ったりしない。ふと、不思議に思った話でした

本文

「桃太郎」というお話は、日本中の子供たちが一度は聞いたことがあるであろう、親しまれている昔話だ。桃から生まれた少年が、仲間を集めて鬼を退治に行く。その活躍ぶりから、勇敢さや友情、正義の象徴として捉えられることが多い。

しかし、冒頭のエピソードにおいて、「おじいさんが山へ柴刈りに行った」という部分について、深く考えることは少ないかもしれない。このエピソードは、一見すると物語全体とは全く関係ないように思える。なぜなら、その後の展開で山や柴が登場することはないからだ。

おじいさん自体も、桃から生まれた少年、すなわち桃太郎の存在によって影が薄くなってしまっている。では、なぜこのような初期のエピソードが描かれているのか、何か意味や役割があるのだろうか。そんな疑問が、ふと頭をよぎることがある。

比較対象として、「竹取の翁」の話を挙げてみよう。竹取の翁が竹を取りに行くというエピソードは、その後の物語展開と深く結びついている。竹取の翁が竹から現れた美しい女性と出会い、物語が進行していく。しかし、桃太郎の物語では、おじいさんの柴刈りという行為と、後の展開との関連性が見えない。

この違いは何を意味しているのだろうか。それは、物語の背景にある社会や文化の違いを表しているのかもしれない。古代日本の生活や価値観を反映したものと考えることができる。

例えば、柴刈りは日常的な行為で、山へ行くという行為も生活の一部だった。それが物語の初めに描かれることで、一般的な生活環境を示しているのかもしれない。また、山へ行くという行為は、自然との関わりや信仰心を示唆するものかもしれない。

また、おじいさんが柴刈りに行くというエピソードは、物語の始まりを示す象徴である可能性も考えられる。ここから何かが始まる、という期待感を読み手に与えるための描写なのかもしれない。

しかしこれらの解釈は、あくまで一つの可能性であり、確定的なものではない。物語の解釈は、読む者の視点や文化的背景によって変わるものだからだ。

このように考えると、おじいさんの存在感が薄いのは、桃太郎が主役であるからだけではない。物語の中で見えない役割を果たしているのかもしれない。

私たちが日常生活で遭遇する物事についても、同様に見方や解釈がある。当たり前のように思えることでも、より深く掘り下げて考えることで、新たな視点や意味を見つけ出すことができる。

この視点は、物語だけでなく、私たちの日常生活にも通じるものだ。見慣れた風景や日常生活の中にも、新たな視点を持って向き合うことで、見過ごしていた可能性や深層が見えてくるかもしれない。

それは、「桃太郎」の物語を読み返すことで、見えてくる新たな発見かもしれない。冒頭のおじいさんのエピソードが、一見すると物語全体と無関係のように思えても、より深く考えてみると、その中に隠された意味やメッセージを見つけることができるかもしれない。

物語は、私たちに新たな視点を提供し、思考を深めるきっかけを与える。それは、桃太郎の物語だけでなく、日々の生活の中にも言えることだ。物語から学ぶ視点や思考法を日常生活に活かすことで、新たな発見や感動が待っているかもしれない。そう思うと、改めて物語の力の偉大さを感じる。

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