在宅ワークでいつものPCと仕事用PCを使い分けるために買ったガジェット

いつも使っているPCはノートPC。普段はそいつが机の上においてあって、マウスやキーボード、デュアルディスプレイ用のディスプレイ色んなものが便利につながっているわけなのだけど、いざ在宅ワークしようとなると若干面倒くさい。

今までは在宅ワーク用のスペースを作ってそっちにディスプレイやらマウス、キーボードをワンセット用意して、そっちで作業していたからいいんだけど、だんだん暑くなってきた。

寒いのはある程度どうにでもなるけど、暑いのはしんどい。普段使わないテレワーク用のスペースでは冷房が若干怪しい。となるといつもの場所で在宅ワークしたい。が、そこにもうワンセット置くのは流石に邪魔くさい。

となると、在宅ワークするたびにいつものノートPCからHDMI、USB TypeAハブ、USB TypeC充電ケーブルなんかを引っこ抜いて、仕事用のPCに差し直して…、面倒くさい。で、仕事が終わったら仕事用のPCから引っこ抜いていつものノートPCにつなぎ直して…、面倒くさい。

っというのを繰り返した結果、結局ドックを買うのが一番いいんじゃないの?ってところに落ち着いた。

で、買ったのがこれ。どうもつい最近出たらしいけど、なんか色々ついてるのが便利。同じような製品はあるけどUSB TypeAとTypeCポートの数が多いってのは選んだポイントの一つ。こいつなら、本当にノートPCの下に敷いておけばTypeCのケーブル一本差し替えるだけで手間いらず。すごい。

あとはポートが同じ側に並んでいること。前にも後にもポートがあったりすると置き場所に困って結局じゃまになってしまう。こいつだとノートPCの後ろ側にポートが増える形になるので机の上に這い回っていたケーブル類が全部後ろにまとまって非常にいい感じ。

こういうのを買ってしまうとノートPCを机の上に直置きすると若干もさったいなってなって買ったのがこいつ。こいつでドックごとノートPCを浮かせておいて、その下からマウスやキーボードのケーブルを持ってくれば、机の上が更にいい感じになった。まぁ、浮けばいいので別にこれじゃなくてもいいと思うけど、なんか評判良さそうだったのでチョイス。

そんなことをしていると、あー夏だしノートPC熱いな、なんか冷やす方法ないかなってなって、こんなものを買う。こいつを浮かせたノートPCに向けて稼働。ケーブルもさっきのドックから伸びてるから机の上で邪魔しない。

で、ここまでくると、だんだん机の上からものが消えるのが楽しくなってきて、しばらく前から使わなくなったこいつを押し入れから引っ張り出してくる。こいつを机の下にぶら下げて、ちょっとした小物や紙ものを仕舞っておくとあら不思議、机の上から小物まで消えてしまいましたとさ。

これらの試行錯誤の結果、机の上から小物やケーブルが見えなくなり、非常にいい感じ…、じゃない、仕事用PCを使うときはいつものノートPCを閉じてその上に仕事用PCをオン、USB TypeCのケーブル一本を差し替えるだけで切り替えできるようになりましたとさ。めでたしめでたし。

今度は、デュアルディスプレイ用に机の上から伸びてるディスプレイアームが気になってきたぞ。いっそ天井から吊るすとか?

まぁ、人間色んなものに息詰まるとさ、環境を変えれば解決するんじゃないかって思って試行錯誤するんだけど、本当に変えないといけないものは別のところにあったりするんだよね。ということは気がついていないことにする。

分断される社会を考える上で読むべき本『子育ての大誤解』

 ほんの軽い気持ちで手にとった本だけど、正直に言ってここしばらくの間で一番衝撃を受けた本。読んでる最中から頭の中をぐちゃぐちゃにされるような感覚は久しぶり。

 内容自体は「子どもの将来と親の育て方には有意な関係はありませんよ」っていう話なのでそれはそれでいいのだけど、その中で提唱されている社会集団化説が衝撃的。

 いや、それ自体は特に難しいわけでもなく、話を聞けばそうだよね、そういう事あるよねで片付くんだけど、考え始めるとこれまで社会で起きてきたこと、いま社会で起きていること、これから起きそうなことが一つにつながってくる。

 例えば、いじめや非行、差別、デマの拡散、組織ぐるみの不正や腐敗、思想的や民族、社会階層や地域による分断と対立、移民や難民問題、それらがネット上で増幅・強化されるエコーチェンバーなんかの現象、歴史を遡ればなぜヒト属には自分たち現生人類であるホモ・サピエンス・サピエンスの一種しかいないのか、他のヒト族はどこへ行ったのか、なぜホモ・サピエンス・サピエンスは万物の霊長を名乗るほどに進化したのか。

 そういったヒトが集まった社会に起こりうることが一本の糸でつながっていくように思えてくる。それを知ればこれからどうしたらいいかが見えてくるのかもしれないと思わせてくれた本でした。

子育ての大誤解〔新版〕上――重要なのは親じゃない (ハヤカワ文庫NF)

子育ての大誤解〔新版〕上――重要なのは親じゃない (ハヤカワ文庫NF)

子育ての大誤解〔新版〕下――重要なのは親じゃない (ハヤカワ文庫NF)

子育ての大誤解〔新版〕下――重要なのは親じゃない (ハヤカワ文庫NF)

本の概要

 本の主題は前にも書いたように「子どもの将来と親の育て方には有意な関係はありませんよ」。ざっくり引用すると以下。

今まで子どもたちに重大な影響を及ぼすと考えられてきたもののほとんどは結局重大な影響を及ぼしていないということを意味する。親が仕事をしようがしまいが、本を読もうが読むまいが、お酒を飲もうが飲むまいが、喧嘩をしようがしまいが、結婚生活をつづけようが別れようが、それらは「家族内の子どもたち全員にとって本質的に同じ」であり、それゆえにこれらすべては子どもたちに「わずかな影響しか及ぼさない」と考えられる。同様に家庭の物理的な環境に関しても、それがアパートだろうが、農家だろうが、広々としていようが、こみ合っていようが、散らかっていようが、きれいに整頓されていようが、画材道具が多くて豆腐をよく食べようが、車のパーツだらけで高カロリー菓子をよく食べようが、これらはすべて「家族内の子どもたち全員にとって本質的に同じ」であり、それゆえに、これらはすべて子どもたちに「わずかな影響しか及ぼさない」

 もちろん筆者も念を押しているが、親が子どもを虐待してもいいとか育児放棄してもいいと言うような話ではない。ただ、親が子どもにどういう教育しようと愛情の注ぎ方をしようと親は子どもの将来に対して有意な影響を与えることは難しいですよという話。

 つまりこういうこと。

結果 内容
子どもは親の背中を見て育つ
親はなくとも子は育つ
朱に交われば赤くなる

子育て神話

 説明するのもあれなので筆者が別の本から引用したあるべき子育てのイメージはこんな感じ。これに対して筆者はそれはなんの根拠もない話で、いうなればただの神話に過ぎないですよっていってる。

親が愛情をたっぷり注ぎ、常に向かい合いながら育てた赤ちゃんは親にしっかりと愛着をもち、自信溢れる愛らしい子どもへと成長する。子どもとの会話を大切にし、また本の読み聞かせを習慣とした親は、快活で学業の成績も優秀な子どもをもつ。親に物事の善悪をしっかりと(厳しくではなく)教えられた子どもは問題を起こす可能性が低い。子どもに粗暴な態度をとる親は、攻撃的もしくは怯えるような、場合によってはその両方を兼ね備えた子どもをもつようになる。親が子どもに対して正直で、やさしく、誠実であれば、その子どもも正直でやさしく、誠実な人間になる。さらに親の都合で両親の揃った家庭を与えられなかった子どもは、大人になってからなんらかの挫折を経験する可能性が高い

じゃぁ、なにが子どもの成長に影響するのか

 結局のところ、ヒトは仲間集団の中で成長していく。子どもの場合で言えば同じ子ども集団(学校や何か)の中。その中でも自分により少し年上の子どもが影響力をもつ。

 集団の中でヒトは自分の立ち位置を確認し、その集団に合わせて自分を調整し振る舞いを使い分けていく。その集団は「学校のクラス」や「近所の友だち」という実際に集まっている集団の場合もあるけど、例えば、「大人と子ども」、「男と女」、「陰キャと陽キャ」、「誰それのファン」なんていう概念的なイメージである場合もある。

 そして重要なのは、子どもはこれらの集団のどれかひとつだけに所属するわけじゃなく、場合や状況に応じて所属する集団を使い分けている。そして「家族」や「親子」、「兄弟姉妹」といった今まで特別だと思っていた関係性も、その使い分ける集団の中の一つにしかすぎない。

 外ではよく喋るけど家に帰るとおとなしくなる子もいれば逆もいる。家と学校、親の前と友達の前で態度が違うやつなんかざらにいる。家では横柄で乱暴だけど外に出れば優等生なんてのも珍しくない。そう考えればなにも難しいことはない話し。

 そしてヒトはこういう使い分けを本能レベルで無意識下に行っている。生後しばらくしないうちからそれは始まって、自分と他人、自分たちと他人、こちらとあちら、そういう世界の分類の仕方と所属集団の確認、調整は誰から教えられるわけでもなくできるようになる。

 取り巻く集団をカテゴリーに分類して自分と所属する集団の差異を埋めていく。そうしていくうちに集団は似た者同士が集まっていく。ただし集団の中での立ち位置を確保するために集団の中でも差別化していく。そうして集団のなかでもそれぞれごとに少しつづ違っていく。

そうは言っても親は大切

 ここまでだと、じゃぁ親は無力なのかというとそうじゃない。

この本では皆さんにとっておそらく初耳となるであろう三つの説を述べている。

第一の説は子どもの性格形成に親は完全にあるいはほとんど無力ということだ。子どもはその性格と行動が親と似るが、その理由は二つある。一つは親から遺伝子を受け継ぐから、もう一つが両者は通常同じ文化あるいはサブカルチャーに属するから、である。

第二の説は子どもたちが社会化を果たし、性格が形成されるのは、家庭の外での経験、すなわち仲間と共有する環境の中だということ。

第三の説は一般化(汎化ともいう。ある刺激に対して条件反射が形成されると、類似した刺激に対しても同様の反応をもたらすこと)に関することだ。心理学者たちは長年、人の行動パターンはそれに伴う感情とともに、ある社会的状況から別の社会的状況にいとも簡単に継承されるものだと信じてきた。

第三の説によればその思い込みは間違っている。異なる社会的状況においてどこか似た行動をとるのは、その多くの場合、遺伝的要因によるものだ。遺伝子はどこまでもついてくるが、親きょうだい間で身につけた行動は親きょうだい間でだけ有効なのだ。子どもたちは過去の社会的状況で学んだ行動パターンを引きずりながら新しい状況に向かうわけではない。現状に即した新しい行動パターンを身につける準備はしっかりできているのだ。私の考えはこれまで何度も要約されてきたが、この第三の説に言及されたことはほとんどない。

だが私にとってはこの第三の説こそが、最も重要な私の仮説なのだ。メディアでは私の考えは次の八文字に集約されている─ ─「親は重要ではない」。もちろん親は重要だ!でもどこで、どのように重要なのか。「どこで」への回答につながるのがこの第三の説だ。親が重要な場面というのは「家庭」だ。そして「どのように」への回答が人との関係だ。人とのかかわりがあらゆる人間にとって重要なのだ。

 そこら辺についても筆者は再三に渡って注意を促している。たとえば離婚。片親であること自体は子どもがどう成長するかにはほとんど影響しないけど、離婚という事象自体は子どもに大きな影響を与える可能性がある。

離婚はいくつかの点で子どもにとってゆゆしい事態となる。第一に、重い経済的代償を払うことだ。離婚した親の子どもたちは、普通、生活水準の急降下にさらされることになる。経済状態は彼らの住む場所をも左右するが、どこに住むかは彼らに大きく影響する。つまり第二に新たな地域への転居を余儀なくされることだ。中には何度も転居を繰り返すことになる子どももいる。第三に肉体的虐待を受ける可能性が高まることだ。継父や継母と同居する子どもたちは、実の両親と生活する子どもたちよりも虐待を受ける可能性がはるかに高い。そして第四に、離婚のために子どもが個人間で養った人間関係を断ってしまうことだ。

つまり子どもが巣立ってから離婚するのは賢い選択なのかもしれない。

なんで衝撃を受けたのか。その1

 言ってみればただそれだけの話になんで衝撃を受けたのか。

 それは今まで筆者のいう子育て神話を漠然と信じていた自分がいたことに。その反例や反証、そういったものは目の前にあったし、見聞きしていたにもかかわらず、自分の都合のいいように漠然としたイメージで使い分けていたことに気がついた。

 蛙の子は蛙って言葉も知っていたし、鳶が鷹を生むって言葉も知っていた。優秀な親からだめな人間が育つことがあるのも知っていたし、親が熱心に何かを教育しても子どもには全く響かずに無駄に終わる話も知っていた。真面目な親からグズみたいな人間が育つこともあるし、クズみたいな親から聖人君子みたいな人間が育つこともある。

 そっくりな一卵性双生児もいれば、似ていない一卵性双生児もいる。似ている兄弟も似ていない兄弟もいる。全く血の繋がりもないのによく似ているやつもいる。ある集団はお互によく似た行動を取る。

 それらを冷静に取りまとめると「親の育て方は子どもがどのように成長するかにほとんど影響がない」という結論にたどり着いてしかるべきなのに、そんな話を考えようともしなかった自分がいる。なんとなくその時の状況に応じてしたり顔で「まぁ、蛙の子は蛙だよね」とか「鳶が鷹を生んだみたいな話だよね」とか考えてた。

 どんだけ自分は能天気で考えなしだったのか、物事を理知的に見れないのか、目が節穴なのか。もちろん、筆者の言うとおり親と子には遺伝的なつながりや社会的なつながりがあるし、似たようなところもあるから一概にいえないんだけど、そこら辺は本を読んで見てほしい。

なんで衝撃を受けたのか。その2

 ここからが本題。

 結局のところ、この話は「ヒトは自分が所属する集団にふさわしい振る舞いをするようになり、他の集団と差別化していく」ってところに落ち着いていく。考えてみれば当たり前。無意識レベルで言えば類友って話だし、人為的レベルで言えばチームごとに異なるユニフォームを着て一体感を高めるとか当たり前。簡単に言えば仲間意識。

 そしてこれがどうして起こるかっていうと、ヒトは自分を無意識レベルで集団に帰属させていくし、その集団としてまとめるためにお互いにお互いが同質化していくし、自分が所属しない集団と混ざらないように集団自体が別の集団とは差別化を図っていく。

ヒトは「あちら側」と「こちら側」を区別する

 簡単に言えば、ヒトは「あちら側」と「こちら側」を区別するし、「あちら側」を常に差別化する。その差別化の中には「あちら側」を排斥するということも含まれる。

 これって今問題になっているいろんなことの根幹にある現象だと思うんだよね。

 たとえばいじめは本質的には原因なんて無いんだろう。いじめる方にとっていじめられる方は「こちら側」ではなく「あちら側」というだけ。いじめる方にそう判断されるきっかけはあったのかもしれないけど、きっかけ自体にはなんの意味もない。組織ぐるみの不正が正されないのもその組織が「こちら側」だから、「あちら側」である世間から守らないといけない。思想や民族、社会階層の対立も結局のところ「こちら側」と「あちら側」に分けることで発生する。

 ネットで言われるエコーチェンバーだって、結局「こちら側」はより似てくるってだけの話だし、思想が先鋭化していくのも「こちら側」が似てくる+「あちら側」と差別化を図ってるって話。移民や難民の対立問題もおんなじ話。

 本来的にはプラスの感情であるはずの何かのファンやサポーターが過激化してほかのファンわサポーターと対立するなんてのもよく聞く話。おなじファンやサポーターの中での対立もよく聞くよね。

 こういう「あちら側」と「そちら側」は無意識レベルで作られるし、ヒトは必要に応じていくつもの「こちら側」を使い分ける。ネット上では過激な発言をしている人が、家では良い夫・妻・子どもであることになんの矛盾も発生しないし、会社では真面目な人が家ではDVをしているなんてのも矛盾は発生しない。

 こう考えると、なにか問題があったときにすぐに「あちら側」と「こちら側」をわけて断罪してしまうのは悪手だと気づく。あいつらはわかってない、あいつらが悪い、それは対立を鮮明にし、対立を固定化してしまう。

自分をなにかの集団に帰属させる

 いろいろな集団が同質化していき、互いに互いを差別化していく。それは時間が経てば立つほど先鋭化してより深刻な排斥や対立として表面化する。

 ネットがなかった時代には、ヒトの目に映る集団は多様ではあったけど今よりもずっと少なかったんだろうと思うし、その集団が同質化していくための方法も乏しかったし、なにより時間がかかったんじゃないかな。

 それがネットの時代になると、少しネット見ていれば山程の集団が見つかるし、24時間いつでも集団に帰属できるようになる。差別化する他の集団にも事欠かない。それに必要な情報も真偽は別として山ほど出てくる。そして加速度的に先鋭化してより深刻な排斥や対立として表面化する。

 きっかけは何でもいいんだと思う。自分は「こちら側」であること、「こちら側」は現実の集団でなくても構わない。「あちら側」は「こちら側」以外のすべて。相手に事欠くことはない。必要であれば「こちら側」の中でも「こちら側」と「あちら側」を作ってしまえばいい。「あちら側」と「こちら側」はいくらだってつくることができる。

人為的に「あちら側」と「こちら側」を作り出す

 もちろん「あちら側」と「こちら側」を人為的に作り出すこともできるだろう。私達は世間から十分に顧みられていない、見捨てられている、ないがしろにされている、攻撃されている、奪われてる、不公平だ。そういった言葉を使えば、人は簡単に自分を「こちら側」に所属させる。

 周りを見渡してみても、そういう話はゴロゴロしている気がするし、それを意図的に作り出している、表出させているように見える人たちもゴロゴロしている気がする。「こちら側」は「あちら側」とは違うのだ。我々は奪われている。

 もちろん、一種の扇動としてそれを承知でやっている人たちはいるんだろう。それはすごく恐ろしいことなんだと思う。なにせヒトの無意識レベルに働きかけるんだから。一種の洗脳、集団ヒステリー的な状況を作り出せるんだから。ネットのおかげでより広く、より効率的に。

虐殺器官と虐殺の文法

 こういう話を考えていて思い出したのが伊藤計劃の「虐殺器官」。もちろんSF、フィクションなんだけど、その中にヒトには虐殺を行なうための虐殺器官というものがあり、それを人為的に刺激するための虐殺の文法が存在している。その虐殺の文法を使うと、ヒトは知らず知らず虐殺器官が刺激され、広範囲に撒き散らすことで集団虐殺を発生させることができる。

虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

 結局とのころ作中では虐殺器官とは具体的になにか、虐殺の文法とはなにかは明かされないんだけど、この「ヒトが無意識的に『あちら側』と『こちら側』を分けてしまう」まさにそれこそが虐殺器官じゃないか、「ヒトを『あちら側』と『こちら側』に分けるように人為的に誘導する」まさにそれこそが虐殺の文法じゃないか。

 最終的に物語としての「虐殺器官」がどうなるのかは実際に読んでみてほしいし、実質的な続編である「ハーモニー」がなぜああいう話になったのかも、なんとなく腑に落ちてしまった。

 いや、普通気づくだろって言われればそれまでなんだけどさ、ここまでこないといろいろな話をリアリティを持って考えられなかったんですよ。

まとめ

これは良い知らせなのかもしれない

 子どもがどのように成長するかに親がどう育てるかが影響することは少ない。もちろん遺伝的な影響はあるが、それは全てではない。これはとても良い知らせのように思える。いまニュースを見ていると、やれ云々に影響する遺伝子を解析しましたやら、子どもはこう育てないといけないという言説やらが話題に上がらない日はないように思える。

 この本に書いてあることを鑑みれば、それらは我々を構成する全てではなく、影響はあるが全てではないと考えられる。それは遺伝子や自分のコントロールでできなかった親の育て方に縛られる必要はないということ。また、子ども時代にどのような集団の中にいたか、その集団の中でどういう位置にあったかが重要ではあるが、一度そのことを認識さえしてしまえば、あとからでも思い直すことができるかもしれない。気に入らなければ意図的に別の集団に入ればいいのだ。

 子育てに悩んでいる人にとっても、子どもが困難に陥っているときにどうしたらいいかの指標になるだろう。子どもは所属する集団によって社会化される。もし今所属している集団内での子どもの扱いが適切でないなら、別の集団へ所属させればいい。本書では社会不適合の傾向を示している子どもを別の地域に転居させることで一般的な意味での更生を成し遂げた例も多数述べられている。

 もちろん、子どもたちにとって転居はどう転ぶかわからないバクチ的な要素はあるにせよ、現に問題が生じているのであれば、どのように対処できる可能性が残っているかの選択肢として残していてもいいと思う。少なくとも無駄に我慢して耐え忍ぶ道よりはマシかもしれない。

 そしてなにより、自分に影響している要素に対して無自覚でいるより、多少なりとも自覚的であったほうが、いくつになっても有用だと思う。

これは悪い知らせなのかもしれない

 この本に書かれていることは、人をコントロールするための指針となりうる。もしこの本を読んでいない人が相手であれば複数人の協力者がいさえすれば、どのようにでも人をコントロールできるかもしれない。もしかすると集団の中のリーダーだけでもこの考え方を技術として使うことを知っていれば、その構成員を自由にコントロールすることができるかもしれない。

 それこそ、伊藤計劃の虐殺器官のジョン・ポールのようにメディアに関わる人間がこれをしれば虐殺の文法を自由に扱うことができるかもしれない。この本で触れられていることは突飛なことではない。ある意味、一般的な知見の集合だし、今まで見聞きしているものの列挙でもある。

 ただ、この本はそれを一つの枠組みに収めてしまった。ヒトは集団を作り、自身を集団に帰属させ、より帰属させるために集団内の構成員は同質化していく。また、ヒトは集団を維持するために別の集団を想定し、その集団と自身が帰属する集団を差別化していく。「こちら側」と「あちら側」。その差別化は、話し方、文化、態度、習慣、着るものからちょっとした仕草、訛りなど多岐にわたり、差別化の一環として相手集団の排除をも行う。

 そして重要なのは、集団は物理的な集団だけではなく、観念的な集団、自身が所属するであろうという集団でも構わない。どの集団に所属するかは無意識レベルで行われ、ヒトは状況に応じて自身が所属する集団を簡単に切り替えることができる。もし、誰かが所属する集団をコントロールできるなにかが存在したら…。きっとそれはすごく怖いことなんだろうと思う

ところで結論は?

 この話に結論は特にない。単に本を読んで衝撃を受けましたってだけ。

 でも、自分たちヒトはこういう特性を持っているのだということを知ることで、今まで漠然としか持ってなかった社会問題に対するイメージをはっきり持つことができるような気がする。

 例えば重ね着が好きな人がいて、重ね着するのが自分流だと思ってこだわっている。けど、よくよく考えたら単純に自分が寒がりだったり、周りの気温が低かっただけだったりすることに気がつく。

 別にそれでなにか問題が解決するわけじゃないけど、きっとそれに気がつけば自分流にこだわらず、もう少し周りをよく見ることができるようになる気がするよねって話。

日本人のための第一次世界大戦史 – 板谷敏彦

 著者いわく「アメリカやイギリスと同じ側に立って戦った第一次世界大戦の日本人の記憶は、今度は彼らと敵対した第二次世界大戦の敗北によってほとんどかき消されているのではないでしょうか?」、「ところが私の知る限り、日本人の歴史的知見は日露戦争の後、いきなり第二次世界大戦に飛んでしまう」。

 言われてみれば確かに第一次世界大戦の印象は薄い。日露戦争はたまに聞く、第二次世界大戦については嫌というほど話題に上がるし、関東大震災は忘れない。じゃぁ、第一次世界大戦は?と言われると困ってしまう。この本ではそんな印象の薄い第一次世界大戦について、その前夜から大戦中、戦後までをテーマ単位でわかりやすくまとめた本。

日本人のための第一次世界大戦史 世界はなぜ戦争に突入したのか

日本人のための第一次世界大戦史 世界はなぜ戦争に突入したのか

第一次世界大戦の印象

 地味とはいっても多少なりともイメージはある。なんかヨーロッパの方でドタバタしていた間に、極東では鬼の居ぬ間になんとやらと、日本がいろいろやらかしてた。正直そのくらいの印象しかない。

 そもそも大正期を描いたようなドラマや小説なんかでも、関東大震災が起こって一区切りみたいなのがよくあるけど世界大戦の話題が出てきたような気がしない。せいぜい会話の何処かで「ヨーロッパでは云々」みたいに説明されるのが関の山じゃなかろうか。

大戦前夜

 本書では、世界が大戦に突入する少し前のところから話が始まる。とくにピックアップされるのは技術的なと経済的な変化。

 技術的な変化では、蒸気機関、鉄道、電信技術の発展、自動車や航空機、そのための石油採掘など。経済的な変化では、技術的な変化を下敷きにして世界が急速に近くなったため起きるグローバル化。また、マスメディアと呼ばれる新聞やラジオの登場などの今に繋がる様々な要素が急速に登場した時代らしい。

 さらっと挙げてるけど、それぞれが世界を変えるレベルの発明だったり変化過ぎて頭が痛い。こうして列挙されると、この時期を境にどれだけ社会が変化したんだろうかとびっくりする。最近よく「明治維新が起きてN年でこういうことが起こった」とかいう話があるけど、どれだけの技術革新があったのか。

 本書では特に世界大戦直前の戦争であるドイツ統一戦争、普仏戦争、日露戦争などを取り上げて以前以後をわかりやすくまとめている。なにせ全13章中、5章丸々つかってるレベル。

人の意識は早々変わらないんだろう

 自分の印象だと、これらの結果として第一次世界大戦はそれ以前の戦争(例えば日露戦争)と全く別物になってしまった。そして当時の人たちにとっては何がどう変わってしまったかが分からないまま戦争に突入し、世界大戦の規模まで膨れ上がってしまったんだろうと感じる。

 また、筆者はこの当時の状況と急速な技術の発達に伴って世界のグローバル化が一段と進んでいる今の世界の状況には類似性があることを指摘している部分は気をつけたい。

大戦勃発

 サラエボ事件は歴史で覚えさせられるし、インパクトがでかいので覚えている。ただ、じゃぁなぜそんな事件が起こったのか、と言われるとぼやーっとした印象しかないのが正直なところ。なんでそんなところで殺されるねん的な。

 要するとそれ以前から火種はくすぶっていたんだよねという当たり前の話なんだけど、本書では段階を踏んで説明してくれるのですんなりと頭に入りやすい。とくにドイツは結構前の段階からやる気満々だったり。

国民意識とマスメディア

 この辺の話で気になったのは、国民意識とマスメディアの話。マスメディア(当時の新聞など)が国民感情を扇動して云々、世論に押される形でなし崩し的に自体が進んでいく云々。この本の至るところで、そういった場面が描かれる。

 特に大戦勃発直前、1914年の幻想と表現されているように「各国はグローバル化によって、密接に影響しあっているので、今更戦争なんて不合理なことはおこらないだろう」という空気感は、マスメディアが流した誤報、国民感情を刺激するように加熱していく報道などであっさりとひっくり返っていき、戦争指導者たちが押しとどめようにも止まらない流れの中で国民を総動員した戦争へと突き進んでいく。

 これは第二次大戦中の日本で新聞各社が大本営発表にそった嘘の報道をしていたのとは別の意味で恐ろしい話に聞こえる。

 なんか今と似てるなぁっと思わなくない。今ではマスコミだけじゃなく、インターネットなんかでも平気で世論が加熱して暴走状態になっていくこともよく見かけるけど、それに近いんじゃなかろうか。

世界大戦

 この後、本書は塹壕戦による戦線の膠着と戦争の長期化、日本の極東での帝国主義的な対中制作と日本の参戦、各国での総動員体制への移行、戦争と経済などへと話が移っていく。

 塹壕戦というと第二次大戦のイメージが強かったけど、この時期でも相当膠着した状態だったっぽい。特に航空機も戦車も未発達だったせいでお互いが容易に突破できなくて、いたずらに被害が拡大してく。

 なんどもなんども突破のための一大攻勢を実施しても戦果はなく、消耗戦が繰り広げられる。損失1万5,000人で9キロの前進を計画していた作戦が、蓋を開ければ18万7,000人の損失を払いながら500メートルしか前進できないとか、なにがどうなってそうなってしまったのか表現できないレベルの消耗戦。ほんと、これどうやって終わらせるつもりだったんだろうと後の世に生きる人間としてはひどくげんなりしてしまう。

 一方海ではドイツ軍のUボートによる無差別に商船を攻撃する無制限潜水艦作戦とそれに対抗するイギリス海軍の護送船団方式の確立と海上封鎖などが進んでいく。

 全般を通せば、はじめは好調だったドイツ軍が塹壕戦などによって膠着状態に陥って次第にジリ貧になっていくという構図ができていく。そういう構図をその後の歴史でも見たような気がするな。

 もちろんドイツだけでなく、参戦する英仏露をはじめとする各国も総動員の結果の国力や士気の低下などからにっちもさっちも行かなくなってくる。

 また、陰謀論なんかでよく登場するユダヤ資本もこの時期に勢力を伸ばしたところが多いらしい。一方で国の中でも不安定な立場だったユダヤ人たちは国への忠誠心を表すため戦線へ赴くことも多かったらしい。

ヨーロッパ戦線と日本人

 ちょうどこの頃、日本の海軍が連合国側として地中海に派遣されてドイツのUボートと戦っていたらしい。実はこの話は本書の「はじめに」の冒頭で紹介されてるんだけど、正直びっくりする。

日本海軍地中海遠征記―若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦

日本海軍地中海遠征記―若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦

 ほかにもフランス軍でパイロットとして活躍したバロン滋野こと茂野清武というひともいたらしい。音楽留学していたはずが、なぜか航空機パイロットになってる人で、しかも大戦前に一度日本に帰ってきているのに、大戦後再度フランスに行ってパイロットとして活躍したらしい。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%8B%E9%87%8E%E6%B8%85%E6%AD%A6?wprov=sfla1

終戦とその後

 最終的にはアメリカの参戦とドイツの全力を上げた一大攻勢の失敗、それによる求心力低下による同盟国の瓦解、降伏。この辺もどこかで見たことがある気がしないでもない。

 理想主義者として描かれるアメリカのウィルソン大統領によるドイツの戦後賠償の免除を巡る外交戦と、そんなん知るかよな連合国の駆け引き。実際に参戦してしまうと民意を抑えきれなくなるウィルソン大統領。ドイツ不在のままで進んでいくパリ講和会議、ベルサイユ条約とドイツの解体と返済不可能な多額の賠償。そしてそれは次の世界大戦への火種として残っていくのであった。

 また、対ドイツとの戦争が終わった後も日本は意義の見えないシベリア出兵に突入したり、オスマン帝国が崩壊したり、スペイン風が流行ったり関東大震災が起こったりと全く火種がきえる気配がない。

 そんな普通のドラマなら第一部バッドエンドからの第二部を予感させる展開が現実に起こって行くのがどうしようもない。このときもう少しどうにかなっていれば第二次世界大戦は起きなかったのかと言われれば、多分それは無理でしょうとしか言えないのだけど、少し考えてしまう。

まとめ

 この本は年表形式ではなく、それぞれのエピソードごとにまとめてくれているのがわかりやすい。特に世界大戦はいろんな国と地域で同時並行でいろんなことが起こるので正直つながりがよくわからなかったけど、でストーリーが追いやすいのが素晴らしい。

 また、本書では各種統計、グラフ、地図、写真などが適度に差し込まれるので込み入った内容がわかりやすくなっているのもいいポイント。参考文献も豊富なので詳しく知りたい場合はそちらの方に。

 刊行自体も2017年10月とつい最近なので文中には最近の国際情勢に触れられた箇所も多く、100年前のことをより身近に感じることができる。

 できれば同じような作りで第二次世界大戦の本が読みたい。あれも色んなところでいろんなことが起こりすぎてて、しかも当事者としての日本の記述が多すぎて、正直全体がよくわかっていないのよね。

温故知新?古きを訪ねて

 しかし、ほんとに人間変わらねぇなぁという気持ちが湧いてくる。確かに作者が指摘するように第一次世界大戦前夜の状況と今の状況は結構似ているところがあるような気がする。

 技術の急速な発展に伴うグローバル化、インターネットを含むメディアの発達とその暴走、一部の帝国主義的な動向、そして「戦争なんか起きないよ、やるやる詐欺乙」というような言われてみれば根拠のない幻想。

 そういう「現代」の100年前になにが起きて、どういう過程をたどり、どうなったのかということを知るためには非常にいい本だと思う。

こども風土記 – 柳田國男

 民俗学の柳田國男が子どもと遊びについての連載エッセイ。連載当時(1941年 昭和16年)の時点でもおじいさん、おばあさん世代が子どもだった時代の話だったりとずいぶん古い話のはずなんだけど、どこかで聞いたことがあるような遊びが色々出てきて面白い。

こども風土記

こども風土記

鹿・鹿・角・何本

 この本のはじめに紹介されている子供の遊び。目隠しをしている子どもの背中にもう一人の子どもが指を当てて目隠しをしている子が当てられている指の数を答えるという遊び。

 うっすらとおぼろげな記憶だと、そういう遊びをしたことがあるような気がする。なんて言いながらやったんだっけ、その時の節や言い方があったような、なかったような。

 そんなちょっとした遊びの話なのだけど、その導入が奮っている。そもそもアメリカのとある人が柳田宛に「日本にはこういうこどもの遊戯はありませんか?」と問い合わせてきたらしい。どういうことかというと、これと同様の遊びが、アメリカ、ドイツ、イタリア、スウェーデン、トルコ、スコットランド、アイルランド、フランス、ベルギー、オランダ、ギリシャ、セルビア、ヘルツェゴビナ、エストニア、スペイン、ポルトガルにもあるらしく、日本にも同じような遊びがあったら面白いという話らしい。

 そして、その遊びをするときのキーワードが鹿と角といった言葉で、英語だと「How many borns has the buck?」、日本のとある地域だと「鹿・鹿・角・何本」というらしい。

 で、問われた柳田は「あったらなるほど面白いが、どうもまだ聞いたことがないようだ」と一旦返事をして念の為雑誌に投稿して見たところ、思わぬ反響があった。というのが話の導入部。

子供の遊び

 この鹿の話以外にも色々な遊びが紹介されている。

当て物遊び

 子どもに何かしらを答えさせるような遊び。例えば、かごめかごめ。これも最終的には後ろにいる相手の名前を当てる遊び。なるほど、言われてみればたしかにそうだ。

 面白いのは歌の歌詞のバリエーションが色々ありそうなこと。紹介されている例だと「夜明けの晩に つるつるつーべった」と書いてある。別例では「鶴と亀とつーべった」。

その他色々な遊び

 その他にもいろんな遊びが取り上げられているが、子どもが何気なくしている遊びには、古い儀式や神事などが根底にあるという指摘が面白い。

 遊びをたどっていくと、大昔には村の儀式としてやっていたことがベースになっているんだけど、子どもたち自身はそういったつもりは全くなく遊んでいる。おままごとなんかもそういうものらしく、もともとは野外でご飯を作るような、そんな風習がベースにあるとかないとか。ほんまかいなとは思わなくない。
 

節回しがわからない

 この本には、子どもの遊びとその時に唱える詞がいろいろ紹介されているんだけど、問題はどういう節回しで唱えているのかさっぱりわからない。そりゃ、文字だから仕方ないけど、こういうのってYoutubeとかに上がってたりするんだろうか。

鹿遊び、再び

 はじめに出てきた当て物遊び。柳田がアメリカからの問い合わせには「いやー、そんなんあまり聞いたことないっすわ」と返した後の後日談。

 どうもこのの遊びを会報に投稿して聞いてみたところ、全国から自分の地元にも同じような遊びがある、あった、いまもあるといった反響が170件以上あったらしい。そこからはその反響を分析し、バリエーションの整理が始まって、ここまでの話とは別種の面白さが湧いてくる。

 詳しくは本書を見てもらいたいんだけど、言われれば確かに同じような遊びなんだけど、文句も違えば、遊び方も少しずつ違う。地域と多様性なんてものにも目が行くようなお話。

おすすめ

 古い子どもの遊びに興味がある人、民俗学っぽい古い習慣やお話に興味がある人、子どもの時やった遊びが思い出せない人にはおすすめ。

 この本を読んでいると、多様性ってすごいなぁっと思うのと同時に、こういうものを記録していくってのはすげー難しいんだろうなと思う。節回しなんかもそうだけど、子どもの遊びなんてなかなか記録できないしなぁ。

ダニエル・ピンクの「やる気に関する驚きの科学」

鍵になるのは「機能的固着」を乗り越えること。あるものは別の使い方をすることができる。→ ろうそくの問題

インセンティブについての実験

ある問題を以下の2つのグループに分けて解かせてみる。一般的な起業や我々の目論見では、作業の成果にインセンティブが発生するグループBの方がより短時間に優秀な成果を納めるはず。

グループA
: 作業の目的は「作業時間の平均を知るため」

グループB
: 作業の上位25%に報酬を出す

しかし、実際にはグループBはグループAに比べて3分半も余計に時間がかかった。この事実は多くの企業で行われていることや我々の想定とは異なる。

21世紀的な作業とインセンティブ
多くの企業では成果に対して報酬を出す外部動機付けや飴と鞭に頼っているが、これは20世紀的な作業の多くでは実際にうまくいく。しかし、21世紀的な作業では機能せずにうまくいかないか、むしろ害になってしまう。

20世紀的な作業
: シンプルなルールと明確な答えがあるもの

21世紀的な作業
: ルールは曖昧で、答えがそもそも存在しないか、自明ではない

これは成果に対してインセンティブが「視野を狭め、心を集中させる」効果があることが原因。ある作業に集中することで効果が上がる20世紀的な作業とは異なり、クリエイティブな考える能力が必要な21世紀的な作業では集中してしまうことが効率を悪くしてしまう。

要するに

タスクが機械的にできるものであれば報酬は期待通りに機能し、報酬が大きいほどパオーマンスが良くなっていく。しかし、認知能力が多少とも要求されるタスクになると、良い大きな報酬はより低い成績をもたらした。

科学が見出したこととビジネスで行われていることの間には食い違いがある

金銭的なインセンティブは、全体的なパフォーマンスに対しマイナスの影響を持ちうる。

ではどうするか

外的なインセンティブではなく、内的な動機に基づくアプローチが大切
→ 重要だから、好きだから、面白いから

新しいビジネスの軸

内的なインセンティブを有効に働かせるためには、以下の3つのことが大切。
・自主性
・成長性
・目的

例えば、間違いなく報酬を支払った上で金銭的な問題は終わりにして、時間やタスク、チームや使う技術などに大きな自主性を認めるなど。

Googleの20%ルールなども、この内的なインセンティブを有効に使った例。

まとめ

  1. 20世紀的な報酬 -ビジネスで当然のものだとみんなが思っている動機付けは、機能はするが驚くほど狭い範囲の状況にしか合いません
  2. IF-Then式の報酬は、時にクリエイティビティを損なってしまいます
  3. 高いパフォーマンスの秘訣は報酬と罰ではなく、見えない内的な意欲にあります

そうやって会社を変え、社会を変えることで、世界を変えることができるかもしれない

サイモン シネックの「優れたリーダーはどうやって行動を促すか」

偉大で人を動かす指導者や組織は、全て「考え」、「行動し」、「伝える」やり方が全く同じである。そのやり方は他の人々とは正反対で、「Why」→「How」→「What」の順で伝える。しかし、我々が考え、行動し、伝えるやり方は全く逆で「What」→「How」→「Why」の順になってしまっている。

人は「何を」ではなく「なぜ」に動かされる

そもそも、あることを「なぜ」やっているかをわかっている人や組織は非常に少ない。この場合、利益はWhyの答えではなく、結果にすぎない。マーケティングでも同じで、「なにをして」、「どう違い」、「どう優れているか」を述べみても相手になにがしか行動を期待することは難しい。これでは心は動かされない。

自分が提供するものを必要とする人とビジネスをするのではなく、自分の信じることを信じる人とビジネスすることを目標とするべき。

失敗の理由と必要なもの

あることに失敗する理由は大体いつも同じ、「資金不足」、「人材不足」、「市場環境の悪化」。でも、情熱と理想と信念がなく、諦めてしまうことでも失敗しうる。

イノベーション普及の法則

市場に受け入れられたいならばキャズム(15%〜18%)の市場浸透率が必要。これは、イノベイターやアーリーアダプター層が鍵となる。しかし、彼等は直感と信念で行動しており、「What」では動かない。彼らが従うのは導く人たちのためではなく、自分自身のため、自分自身が信じるもののために動く。だからこそ、Whyを伝える必要がある。

ミハイル・チクセントミハイのフローについて

http://www.ted.com/talks/lang/ja/mihaly_csikszentmihalyi_on_flow.html

要点

人は収入が増えても幸福度はそう変わらない

一定の貧困のラインを超えられなければ不幸になるが、そのラインを超えれば物質的な充足は人の幸福とは関係しない。普通の生活のどこに幸福を感じるのか、何を持ってその人生を費やすに値すると考えるのか。それは名声や富ではない。

忘我や没頭と呼ばれる状態、フロー体験が重要

何かに集中するとそれ以外の物や意識、自分が誰であるかということも消えていってしまう。それが創作的な活動であれば「自分の手が勝手に動いているような状態」。自発的な過程は、よく訓練されて技術を身につけた人にだけ起こる。10年間、特定の分野の技術的知識に深く係ることがなければ、何かに対して創造的になることはない。この状態はスポーツ、芸術、科学、技術、いずれも同じようなことが起こる。

成功したCEOに対してインタビューしたところ「成功とは、自分の仕事の中で他の人を助けながら、同時に自分も幸せになれること」と定義している。彼らはみな自分の仕事を楽しんでいる。

フロー状態に入るためには

使用するスキル(技術)と目的へのチャレンジ(挑戦度合い)の両方が高レベルにある場合にフロー状態に入りやすい。逆にどちらかでも低すぎるとルーチンワークになったり無気力な作業になる。例えば「テレビを見る」といった受動的な活動出会ってもフロー状態になることもある。

ショーン・エイカーの幸福と成功の意外な関係

http://www.ted.com/talks/lang/ja/shawn_achor_the_happy_secret_to_better_work.html

要点

ポジティブ心理学

科学の名による「平均教」崇拝。平均にも基づき平均に分ける。正常というのは、単に平均的ということにすぎない。ポジティブな異常値も大切。

現実を脳が認識するのではなく、脳が世界を見るレンズによって現実は形作られる。レンズを変えてしまえば、自分の幸福度を変えられるばかりではなく、あらゆる学習や仕事の結果を変えることができる。人の幸福の度合いが、その人の周囲の環境を見て言い当てられると改定するのは間違い。実際は脳が周囲の環境をどう処理するかにかかっている。

「一生懸命に頑張れば成功できる。成功すれば幸せになれる」という考え方が一般的だが、科学的には間違っており、逆。現状へのポジティブさの度合いを引き上げれば、その人の脳は「幸福優位性」を発揮しだす。ポジティブな脳はネガティブな脳やストレスフルな脳よりずっとよく機能し、あらゆる学習や仕事の結果を改善することができる。

幸福と成功の法則をひっくり返す

ポジティブな脳になるには

・ありがたいことを毎日3つ書くことを21日間続ける
・ポジティブな体験を日記に書く
・運動する
・瞑想する
・意識して親切な行動を取る

パトリシア・ライアンの英語だけに固執しない!

http://www.ted.com/talks/lang/ja/patricia_ryan_ideas_in_all_languages_not_just_english.html

要点

世界では14日に1つのペースで言語が消えていっている。世界の言語は6000言語から600言語に

英語教育が相互利益のある行いだった時代から、大規模な国際ビジネスへと移行している

英語は、圧倒的な力を持つようになった
→ 世界トップレベルの大学は英語、トップレベルの企業も英語

英語が国際語、共通語であることは問題ない。
でも、「英語ができること=優秀なこと」なのだろうか

英語以外のそれぞれの言語で表現されている知識を過小評価していないだろうか
→ 考え方や表現、言い回し、生活の知恵など

これからはそれぞれの言語で表現されている知識を組み合わせ評価することが大切
多様性を重視し、自身の言語を大切にして知恵知識を広めて行きましょう

レニー・グレッソン:404 見つからないページにまつわるお話

http://www.ted.com/talks/lang/ja/renny_gleeson_404_the_story_of_a_page_not_found.html

要点

そもそも404ページは、Web上で経験する残念な経験である

その404ページに動画を埋め込んだサイトが現れ、コンテストに発展
例)残念な動画を埋め込む。ペットの残念そうな写真を表示する

404ページのような些細な事も実は重要であり、良質なデザインはブランドになる
→ 404ページはエラーページではあるが、同時にチャンスでもある

一度壊れてしまった関係から愛すべき関係を気づくことができる可能性に気がつける