日本史のターニングポイント

考えたこと

先日寝ながら考えた日本史のターニングポイントのうち、インパクトが強いものを3つ選んでみた。

他にも色々と歴史的な分岐点はあるんだろうけど、個人的にこの出来事がなければ日本が今の日本の形で存在しなかったであろう出来事をピックアップしてみた。細かい説明はWikipedia先生からの引用。歴史順に並べただけ。

白村江の戦い

白村江の戦いとは、663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江近郊)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍(羅唐同盟)との間の、海と陸の会戦のことである。

この戦いは、唐・新羅連合軍の勝利に終わった。大陸に大国である唐が出現し、東アジアの勢力図が大きく塗り変わる中で起きた戦役である。この敗戦により領土こそ取られなかったものの、倭国の国防体制・政治体制の変革が起きた。この結果、倭国から日本に脱皮するようになるなどの大きな影響を日本にもたらした。
白村江の戦い – Wikipedia

**影響:日本という新しい国家の建設

倭国は、百済滅亡で多くの百済難民を受け入れるとともに、唐・新羅との対立を深めた。その影響で急速に国家体制が整備され、天智天皇のときには近江令と呼ばれる法令群が策定され、天武天皇のときは最初の律令法とされる飛鳥浄御原令の制定が命じられるなど、律令国家の建設が急ピッチで進んだ。 そして、701年の大宝律令制定により倭国から日本へと国号を変え、新国家の建設はひとまず完了した。

以上のように、白村江の敗戦は倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい国家の建設をもたらしたと考えられている。
白村江の戦い – Wikipedia

遣唐使の停止

唐では874年頃から黄巣の乱が起きた。黄巣は、洛陽・長安を陥落させ、斉(880年 – 884年)を成立させた。斉は短期間で倒れたが、唐は弱体化して首都・長安周辺のみを治める地方政権へと凋落した。

このため遣唐使は、894年(寛平6)の派遣が菅原道真の建議により中止された。907年(延喜7)には唐が滅亡し、遣唐使は再開されないままその歴史に幕を下ろした。

遣唐使の停止により中国との正式な国交は途絶えた。以後、日本では独自の文化である国風文化が発達することになる一方、民間での交流は拡大し、貴族や寺院を中心とした「唐物」の流行など中国の文物へのあこがれや需要は変わらなかった。
遣唐使 – Wikipedia

影響:日本独自の文化である国風文化が発達

国風文化(こくふうぶんか)とは、日本の歴史的文化の一つである。10世紀の初め頃から11世紀の摂関政治期を中心とする文化であり、12世紀の院政期文化にも広く影響を与えた。

中国の影響が強かった奈良時代の文化(唐風)に対して、これを国風(和風・倭風)文化と呼んでいる。現在まで続く日本の文化の中にも、この流れを汲むものが多い。
国風文化 – Wikipedia

以前は寛平6年(894年)の遣唐使停止により中国の直接的影響を抜け出し、日本独自の文化が発展したと一般的に解釈されてきた。しかし、遣唐使廃止後も対外交流は盛んで中国の文物は多く日本に流入していた。そのため、遣唐使停止を国風文化の画期とすることは誤りである。そもそも、唐風の文化を踏まえながらも日本の風土や生活感情である「国風(くにぶり)」を重視する傾向は奈良時代から進行していた。すなわち、遣唐使停止は日本文化の国風化を加速させる要因であったとみることが適当である。
国風文化 – Wikipedia

日露戦争

日露戦争(にちろせんそう、英語: Russo-Japanese War、ロシア語: Русско-японская война ルースカ・イポーンスカヤ・ヴァイナー、1904年(明治37年)2月8日 – 1905年(明治38年)9月5日)は、大日本帝国とロシア帝国[4]との間で朝鮮半島と満洲南部を主戦場として発生した戦争である。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。
日露戦争 – Wikipedia

影響:近代日本の地位の向上と確立

ロシア帝国の南下を抑えることに成功し、加えて戦後に日露協約が成立したことで、相互の勢力圏を確定することができた。こうして日本はロシアの脅威から逃れ安全保障を達成した。さらに朝鮮半島の権益を確保できた上、新たに東清鉄道の一部である南満洲鉄道の獲得など満洲における権益を得ることとなった。またロシアに勝利したことは、列強諸国の日本に対する評価を高め、明治維新以来の課題であった不平等条約改正の達成に大きく寄与した。
日露戦争 – Wikipedia

日露戦争における日本の勝利は、有色人種国家独自の軍隊による、白色人種国家に対する近代初の勝利と言える。(間接的にだが、イギリスがバルチック艦隊の寄港や補給を妨害していた事もあった。)また、絶対君主制(ツァーリズム)を続ける国に対する立憲君主国の勝利という側面もあった。いずれにしても日露戦争における日本の勝利が及ぼした世界的影響は計り知れず、歴史的大事件であったことには変わりない。
日露戦争 – Wikipedia

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